東京大学大学院音楽教育学のとても興味深い研究論文、
『メインストリームの歌手とバロック歌手との間にある「バロック歌唱」観の差異
―質問紙調査とインタビューに基づく分析―』
をご紹介します。
この論文の存在はアメブロのコメント欄で教えていただきました。
以下の記事「古楽の発声とロマン派の発声は違うのか?」という疑問についていただいたコメントです。
バロック声楽の論文本文をダウンロードできます
以下のWebページ右上の「PDFをダウンロード」ボタンから、12ページのPDFデータをダウンロードして読むことができます。
この論文は、過去の文献から議論しているのではなく、実際に現代の歌手たちに聞き取り調査をおこなっている点がおもしろいです。
聞き取り調査は、
- ロマン派オペラを歌う歌手たちと、バロック歌手たちへのアンケート調査
- 国際的に活動している3人の著名なバロック歌手への個別インタビュー
という2段階になっています。
「バロック歌唱」観の差異――論文の内容
今すぐ10ページ以上の論文を読む時間はないけど内容を知りたいという方のために、内容を要約します。
1970年代に起こった古楽復興運動
70年代から、”作曲家自身が当時聞いていた音楽を再現しよう”という動きが起こります。
古楽器の復元など楽器の分野からはじまりましたが、やがて声楽の分野にも古楽復興運動が広がっていきます。
文献から当時の歌唱法を特定することは困難
各音楽院や音楽大学には、従来の声楽科とは別に古楽の声楽を学ぶための科が作られました。
しかし、現存するバロック時代の教則本を読んでも、装飾法の解説などが多く、基本的な発声や歌唱法など実践に役立つ記載が少ないため、当時の歌手たちの歌声がどのような響きだったのかイメージすることは困難です。
両ジャンルの歌手に聞き取り調査
この研究ではバロック歌唱の特徴を明らかにするために、
- 主にロマン派のオペラ作品を歌っている歌手
- バロック時代の作品を歌っている歌手
という、2つのジャンルの歌手に聞き取り調査を行っています。
この論文では、1のタイプの歌手を「メインストリームの歌手」、2のタイプを「バロック歌手」と呼んでいます。
メインストリームの歌手30人、バロック歌手37人――計67人の若手歌手にアンケート記入してもらったそうです。
また若手だけでなく、国際的に活躍する3人のバロック歌手にも個別インタビューをおこなっています。
バロック声楽に関するアンケート内容
それぞれの歌手のバックグラウンドに関する質問
- 声楽全般に関わってきた期間
- それぞれの専門(ロマン派オペラ、もしくはバロック)に携わってきた期間
- それぞれの専門を選んだ理由、他
バロック歌唱に関する質問
- ロマン派オペラを歌うのとバロック音楽を歌うのでは、体の使い方は違う?
- バロック音楽にあっている声質というのは存在すると思うか?
バロック声楽に関するアンケートの回答から分かったこと
それぞれの専門(ロマン派オペラ、もしくはバロック)を選んだ理由
それぞれの専門を選んだ理由は、どちらのジャンルの歌手も「好きだから」という理由が多かったそうです。
でもバロック歌手に関しては、
- 古楽に合っている声質だったから
- 指導者に声質が向いていると勧められたから
と、声質に関する言及があったとのことです。
歌唱テクニックの違いは、「ある」が8割
様式が違うだけでテクニックは同じ、という意見もあったそうですが、少数派だそうです。
両ジャンルの歌手ともに、ビブラートに関するテクニックが最も異なる点だと認識されています。
次いで、声の大きさ・音色・デュナーミクに違いがあるという回答がみられました。
ビブラートに関する認識の違い
バロック音楽を歌う時、メインストリームの歌手たちは単にビブラートをかけない、抑制すると考えているのに対し、バロック歌手は装飾のひとつとしてコントロールすると考えています。
また、ルネサンス作品ではノン・ビブラートが好まれるが、バロック・オペラではビブラートをかけると、プロ歌手へのインタビューで言及されています。
そしてルネサンス作品は直立不動で歌うのに対し、バロック・オペラでは「胴部を意識する」ことで、音量とビブラートが得られるそうです。
バロック音楽では声量のコントロールも不可欠
声量に関しては、バロック音楽では伴奏楽器や共演者にあわせて声の大きさを調節する必要があるという指摘が寄せられています。
小さな古楽アンサンブルと共演する場合、大きな声を出す必要がないからこそ、繊細な表現に磨きをかけられるのです。
その中でディナーミクのコントラストも、言葉の表現に応じてはっきりとつけます。
バロック音楽では、表現のために音色のバリエーションを付ける
オペラでは役柄に応じて音色を変えるけれど、バロック音楽では1曲の中でも表現する内容にあわせて音色を変えます。
ちなみに若手歌手ではなくプロの歌手へのインタビューですが、「中世古楽ではきつめの音色をつくる」と書いてあって大変興味深かったです。
なお、バロック歌唱においてはソプラノ歌手も低音域で胸声を使うことが許されます。
胸声を使うことで、表現の面からもよりコントラストを際立たせることができます。
声楽に限らずバロック音楽においては、コントラストを付けることが大切な概念の1つです。
バロック音楽では、はっきりとした発音が大切
アンケート回答において、メインストリームの歌手は発音に関してほとんど指摘していないものの、バロック歌手からは明瞭な発音の重要性が述べられていたそうです。
バロック音楽における装飾の重要性
バロック音楽を歌う歌手は、自分で装飾を加える必要があります。
1500年代後半の曲と、1700年代のバロック・オペラでは、装飾の習慣も異なります。
それぞれの時代や国にあったスタイルを学ぶことと、和声にあった装飾を考える音楽的知識が求められます。
バロック歌唱ではアーティキュレーションも大切
バロック時代には、作曲家自身が演奏家であり、実演の場に立ち会っていることがほとんどだったので、楽譜にディナーミクやアーティキュレーションがあまり書き込まれていませんが、バロック音楽の演奏では、演奏者がいきいきとしたアーティキュレーションを加えて演奏することが求められます。
バロック音楽に適した声質はある?
この問いに関して、バロック歌手では「ない」がやや上回っていたのに対し、メインストリームの歌手では「ある」が6割でした。
彼らがそれぞれどんな声を「適した声質」と捉えているかというと、メインストリームの歌手は「純粋な」「透明感のある」「軽い」声などと答えているのに対し、バロック歌手は、
- 柔軟性のある声
- 多才な音色を持つ声
- 繊細な表現のできる声
などテクニックの面から回答していたのが特徴的です。
バロック声楽学習者である管理人の感想
ここからは管理人の感想コーナーです。
論文内に、多くのバロック歌手が古楽を専門に選ぶ前に平均4~5年の声楽経験があったと書かれていましたが、管理人の場合は3年程度しかありません。
モーツァルトのオペラアリアの勉強がはじまり、「これからロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニと時代を下っていきます」という声楽の先生の説明を聞き、ヘンデルのオペラが学べないことに絶望して、バロック声楽の世界に飛び込んだため、ロマン派オペラを勉強した経験がありません。
そのため”メインストリームの声楽”に関する知識が手薄でした。
それで先日の記事(古楽の発声はやはり”普通の”声楽と違うのか?)に書いたように、「これは普通の声楽と古楽の差? それともこの先生の個性?」と混乱していたのですが、この論文を読んで、色々とクリアになりました。
現代の歌手への聞き取り調査から明らかになるのは、21世紀版バロック音楽!?
今まで古楽を学んできて、過去の文献にあたることは多かったのですが、現代の歌手がどう考えているか?というリサーチを読んだのは初めてだったので大変興味深かったです。
先日の記事内でも「古楽の発声は文献にもとづいているのか?」に書いたように、バロック時代に出版されたトージやマンチーニなど声楽の先生方の本を読んでも、300年前の発声テクニックが分かるわけではないんですよね。
論文内では、カッチーニの「Le nuove musiche」(1602年)に言及して、基本的な発声を把握できるような実践に役立つ記述がないと書いてあって、「それな」と思ってしまいました!
もしかしたら、21世紀の我々が学んでいる古楽復興運動後のバロック声楽というのは、現代の我々が新たに創造している「新・バロック音楽」なのかもしれませんね。
ルネサンス後期の有識者たちが、古代ギリシャの演劇を復活させようとしてオペラを創り出したように、文献や研究にもとづいてはいても現代の文化なのかも!?と思いました。
国際的に活動しているプロ歌手へのインタビューが含まれているのが嬉しい
プロ歌手のインタビュー内で言及される、中世、ルネサンス、バロックの違いが大変おもしろかったです。
特に中世古楽に関しては何も勉強したことがないので、未知の世界でした。
「歯の後ろに当てて出すきつめの音!? その話もっと詳しく!!」と思いながら読んでいました。
ルネサンス作品の演奏と、バロック・オペラの差異に関しては、そうそう!という感じ。
私が音楽院で通っているコースの名前「Canto rinascimentale e barocco(ルネサンスとバロックの声楽)」にはルネサンスも含まれているので、1500年代の音楽も学ぶのですが、ルネサンスのマドリガーレと、後期バロックのヘンデルに代表されるような華やかなバロック・オペラの差といったら・・・まったく「古楽」と一括りにはできません!
でも古楽界の名歌手たちは、ルネサンス、初期バロック、後期バロックとそれぞれのスタイルに精通し、歌い分けることができるんですよね。
ルネサンスからしっかり学んでこそ、古楽の演奏家なんでしょうね。
バロック声楽におけるビブラートについて
ビブラートに関しても時代によって異なるという記述がありました。
決して”古楽”とひとくくりにできないですよね。
ルネサンス時代の音楽でノン・ビブラートが好まれるのは、多声音楽全盛期だからかもしれません。
複数の声部が作り出す不協和音程(2,4,7度)の緊張感と、協和音程へ解決してゆるむ空気感が作る差異が音楽のおもしろさなので、ビブラートという表現方法は邪魔になるのかも。
メインストリームの歌手というのは、若手や学生だと、古楽の人間が聞き分けている「変化に富んだビブラート」を聞けていないこともあると思います。
というのは、オペラ系の友人にうっすらビブラートをかけている古楽演奏のCDを聞かせたとき、「これはノン・ビブラートでしょ」と言われたことがあるからです。
ビブラートという言葉から想起されるものが、狭く固定されている印象でした。
またビブラートについて、持っている/持っていないという言葉を使うことからも、声に備わっているものという感覚で、古楽系歌手のようにかけるか、かけないか、かけるならどこでどれぐらいかけるか、などとこまかいコントロールをする感覚はないんだと感じました。
・・・といっても実は、感情を強めたらかかっちゃったということがあります。はい。
まあ表現の一種ということで。。。
バロック音楽に向いている声質というのはあるのか?
この点は、やっぱり意見が分かれるところなんですね。
プロ歌手のインタビューで、ビブラートがかかりすぎない声がふさわしいという話がありましたが、声楽のトレーニングの中でビブラートを身に着けたのではなく、生まれつき揺れる声というのがあるのでしょうか?
古楽の勉強を始める前にオペラの勉強をしていて、その中でビブラートをかけて歌う癖が出来上がってしまったのでは?とも思いますが、、、
とはいえバロック向きの声というのは、やっぱりあると思います。
でも声というのは必ずしも生まれ持った声帯だけで決まるのではなく、幼少期に自然に身に着けた発声だったり、子供のころから聴いてきた音楽だったり、歌手ならどんな声が美しいと信じているか、によっても自然と変わるものです。
だからバロック音楽が大好きで、それを歌いたいと思う学生は、大体それっぽい声を出すものです。
声楽の声というのはトレーニングで磨き上げていくものなので、本人が「バロック音楽を歌うのにふさわしい声を身に着けたい!」と真剣に学べば、向いている声質になっていくのではないでしょうか。
ただし女性歌手の誰もが「古楽の演奏で時々聴かれる少女のような可憐な声」になるわけではありません。
あれはもともとソプラノ・レッジェーロの持ち声の人がなるのかな・・・。
ですのでカークビーさんに憧れて、エセ・カークビーにならないようにしましょうね!
みんなが同じような声では、聴いていてもおもしろくないですし・・・
私はむしろ、普通のオペラのほうが生まれ持った声質が重要になってくるんじゃないかと思っていました。
この論文を読んで、オペラには向かない声だと判断された学生が、バロック音楽への転向を勧められることがあるように感じました。
95%教わっていることだが、一部異なっていた点
若手バロック歌手の回答はほとんどが学校で習っていることに、ぴったりと当てはまっていました。
この調査を受けた歌手たちの出身地は複数の国にまたがっているので、バロック音楽の演奏様式はグローバル・スタンダードになっているようです。
そういえば3年前音楽院に留学したてのころ、日本のバロック声楽の先生に習ったことと同じだなぁと思っていました。
1つ大きく異なっていたのは、「バロック歌唱では、女性歌手は頭の後ろに響かせる」という点。
音楽院の先生はソプラノですが、ひたすら前へ前へと指導します。
でも学生の間でもこの指導には疑問を持つ人も多いです。
日本のバロック声楽の先生も、後ろの響きを大切にするよう指導してくださいました。
ですので、音楽院の先生の後ろ禁止、ひたすら前というのは、彼女のちょっと特殊な感覚なのかなと思っています。
本人は前だけ意識しているつもりでも、ちゃんと後ろにも声が回っているのかも。
メインストリームの歌手の回答で、バロック歌唱にはしっかりとした支えがないという意見がありましたが、バロック音楽でも支え無くして歌うことはできません。
メインストリームの歌手の回答にはいくつか、「ええ!? そんなふうに思われているのか」と驚く部分がありました。
いくらでも感想が書けそうな気がしますが、このへんにしておきます!
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