今回は筆者が通っているイタリアの国立音楽院の音楽史授業内容について書きます!
- 古楽科の学生がどの程度、後期ロマン派や現代音楽について勉強するのか?
- 「交響詩」や「十二音技法」など音楽史を説明するのに欠かせない単語をイタリア語で言うと?
などをお伝えします。
音楽史の授業内容と試験
ヴェネツィア音楽院では3年間を使って古代の音楽から現代までを幅広く学ぶカリキュラムになっています。
- 1年次
古代ギリシャ~初期バロック(モンテヴェルディなど)まで - 2年次
古典派(ハイドンなど)~ロマン派中期(ワーグナーあたり)まで - 3年次
ロマン派後期(ドビュッシーなど)から現代音楽(ジョン・ケイジとか)
あれ!? バッハやヘンデルが抜けてニャいか?
そう。音楽史の担当教授変更後すぐの年に、筆者の学校外の仕事(ピアノの先生)が忙しくて履修を翌年に回したため、こういうことになってしまったのです。
レパートリーの多くが後期バロックだから一番たくさん演奏する時代なのに、ショックすぎる……
ちなみに試験は口頭試験。
「1800年代後半から1900年代にかけて、フランスで重要な作曲家は?」というような質問をされます。
作曲家の名前とバイオグラフィ・代表作についてしゃべるだけでなく、音楽史全体を俯瞰して前の時代の作曲家からどのような影響を受け、発展させ次の時代につなげていったかを答えるのがポイント。
フランスの後期ロマン派
1800年代後半から1900年代初めにかけて、パリの音楽界を特徴づけるキーワードは、
- 象徴主義
- ジャズからの影響
- オリエンタリズム
- スペイン文化の影響
象徴主義とは
象徴主義とは19世紀後半、フランスを中心におこった芸術的ムーヴメントで、文学・絵画・音楽に及んだ。知覚できる現実を描くのではなく、人間の内面にある観念(idea)、精神(animo)、心理(emozioni)を表現しようとした。
たとえば詩作だったら、現実世界を説明するのではなく、音楽のように象徴的であるべきだとされる(La poesia è musica)。
音楽では、ワーグナーの最後のオペラ『パルシファル』は象徴主義的である。
ドビュッシーは詩(poesia)に重きを置き、象徴派の詩人たちの詩に曲をつけた。
ジャズとクラシックの関係
1900年頃からジャズとクラシックは影響を与えあっている。
ドビュッシーやラヴェルの音楽は1920年代のジャズにも影響を与えた。シンコペーションがラグタイムへ、教会旋法を取り入れたことからモーダル・ジャズへとつながっていく。
フランス後期ロマン派の重要な作曲家
- フォーレ(1845 – 1924)
- ドビュッシー(1862 – 1918)
- ラヴェル(1875 – 1937)
ほかにも、サン・サーンズ、サティ、フランス6人組などたくさんいます。
ラヴェルはドビュッシーから影響を受け、パリ音楽院でフォーレに師事した。
フォーレ
- サン・サーンズに学んだ。
- たくさんのテキストに曲をつけた歌曲の大家(ドビュッシーと異なる点)。
シューベルトがドイツ・リートの分野で活躍したように、フランス歌曲にはフォーレがいるといえる。 - 教会旋法(modalità gregoriana)を使った作曲
フォーレの代表作
『ペレアスとメリザンド』の付随音楽(musica di scena)
『ペレアスとメリザンド』は象徴派(simbolismo)の詩人メーテルリンクの戯曲でパリ初演(1893年)。2年後のロンドンでの英語公演のためにフォーレへ付随音楽(劇伴)の作曲が依頼された。
その後フォーレ自身が、劇伴から5曲を抜粋して管弦楽組曲版(suite sinfonica)を発表している。『メリザンドの歌』のみが声楽曲。
ドビュッシー
- パリの音楽院で学んだ。
- 初期作品にはメロディがある→後期は和音を音色(timbro)のために用いる曲調に。
- 若い頃はワーグナーに傾倒し影響を受けるが、その後、伝統的な和声から解放され、音色(timbro)を追求するようになる。
- 象徴主義(simbolismo)の作曲家だが、その曲想から同時代の絵画と似たイメージを持たれ、印象派(impressionismo)と言われることも。
ドビュッシーの代表作
- 2つのアラベスク 第1番(Premiere Arabesque)(1888 ~ 1891年)
- オペラ『ペレアスとメリザンド』(1902年)
- 前奏曲(ピアノ曲)12曲ずつ2つの曲集
- フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(Sonata per flauto, viola e arpa, 1915)
2つのアラベスク 第1番(Premiere Arabesque)
初期のピアノ曲。和音を響きのため(timblico)に用いる前の作品なので、バッハ以来の古典的な書法が残っている。
オペラ『ペレアスとメリザンド』
フォーレの作品は戯曲の付随音楽だったが、こちらはオペラ。
オペラのはじまりはフィレンツェのカメラータであり、詩を朗唱するレチタール・カンタンド様式から始まった。
その後レチタティーヴォとアリアの分離が進み、番号オペラが主流となった。
しかしワーグナーは一幕を通して終始することのない無限旋律(melodia infinita)の楽劇を生み出した。そのためアリアから独立していたレチタティーヴォが歌われることとなったので(canto declamato)、原点回帰したといえる。
ドビュッシーのオペラはこのワーグナーの方向性をさらに推し進めた。旋律があいまいになり、より一層話すように歌うというオペラの原点に接近した。
こうした作風には、ムソルグスキーなどロシアの作曲家の影響もあった。
フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ
晩年の名曲。20世紀前半の映画音楽に影響を与えた。
ワーグナーからの脱却
ドビュッシーの書法(scrittura)はワーグナーから影響を受けた。ワーグナーが拡大した和声をさらにすすめ機能和声から脱却したが、ワーグナーを越えるべく踏襲するだけでなく独自の道へ進んだ。
ワーグナーと異なるドビュッシーの独自性とは
(1)ドビュッシーは同時代のパリの音楽界以外にも興味を持ち、自らの音楽に取り入れた(1900年前後のパリは音楽の中心地だった)。
フランス中世のノートルダム楽派の音程(intervallo)を取り入れ、伝統的な和声のコンセプトから脱却した。1700年代から長らく続いた3度・6度の響きに代わって、4度・5度を多用。
また対位法も用いた。この対位法は音色とリズムによるものである。→のちにシェーンベルクに影響を与える。
海外の音楽や文化にも興味を持った。パリ万博で聞いたガムラン演奏に興味を持って響きに重きを置く音楽(musica timblica)へと進んだ(こうした色彩感を強調した音楽から「印象主義(impressionismo)」と言われるが、ドビュッシーはいつも象徴派(simblismo)の詩に曲をつけた)
イタリアの音楽院の先生によると、日本の浮世絵からの影響により空白(spazio)のある音楽となっている、バッハのように音符で埋め尽くされてはいないとのこと。このように絵画からインスピレーション(inspirazione)を得るのも象徴主義的である。
(2)小さなテーマを展開させてゆく作曲手法から解放された
バッハの伝統を引き継ぐドイツの作曲家たち――ベートーヴェンでも、ワーグナーのライトモティーフでも、小さなテーマのヴァリエーションによって曲を組み立てていく手法だった。
ドビュッシーはテーマのバリエーションを書くのではなく、音色(timbro)を変化させてゆく。
(3)オーケストラの使い方が異なる
ワーグナーは金管楽器(ottoni)を、一方ドビュッシーは弦楽器(strumenti archi)のピッツィカートをたくさん用いた。
ドビュッシーに限ったことではなく、ドイツのオーケストラでは金管楽器(ottoni)が、フランスのオーケストラではフルートやクラリネットなどの木管楽器(strumento a fiato di legno)がよく使われる。
ワーグナーのオーケストラ書法は、同じドイツの作曲家であるリヒャルト・シュトラウスに受け継がれている。
金管楽器をよく用いる
それに対して…
弦楽器のピッツィカート、チェレスタ、ハープなど
ラヴェル
ドビュッシーと異なり、ピアノ曲でもシンフォニーでもはっきりとした旋律線をもつ音楽を書いた。
またスペインの音楽やジャズからの影響も多く取り入れている。
ラヴェルの代表曲
- 亡き王女のためのパヴァーヌ(1899年ピアノ曲、1910年オーケストラ)
- クープランの墓(Le Tombeau de Couperin)(ピアノ曲は1914~17年)
- 「ハバネラ」(『スペイン狂詩曲』Rapsodie espagnole 第三曲)(1908)
- ジャズの影響もうかがえる後期の2つのピアノ協奏曲。
「ピアノ協奏曲ト長調」と「左手のためのピアノ協奏曲」
亡き王女のためのパヴァーヌ
「パヴァーヌ」とは、16~17世紀の宮廷舞踏のジャンル。
クープランの墓
1600年代のフランスの作曲家クープランの名をタイトルに冠しているように、バロック時代の楽曲形式を模倣している(プレリュード、フーガ…とつづく組曲の形式)。
反古典主義(anti-classicismo)がうかがえる。
ハバネラ(スペイン狂詩曲より)
ヴァイオリンの半音階の使い方にアラブ風な異国情緒(esotismo)が、カスタネットにスペイン情緒が感じられる曲.
左手のためのピアノ協奏曲
第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインからの依頼で作曲された。ウィトゲンシュタインのためにはプロコフィエフも「ピアノ協奏曲第4番」を書いている。
オーストリアのロマン派後期の作曲家は?
オーストリアの重要な作曲家は、まずマーラー(1860 – 1911)。
十二音技法や無調音楽をおしすすめ「新ウィーン楽派」と呼ばれている作曲家は、
- シェーンベルク(1874 – 1951)←師
- ベルク(1885 – 1935)←弟子
- ヴェーベルン(1883 – 1945)←弟子
マーラー
交響曲(sinfonia)は全部で10曲ある。
第3番は4楽章のアルトソロで、ニーチェの詩「ツァラトゥストラはかく語り(Così parlò Zarathustra)」から「真夜中の歌(canto di mszzanotte)」が歌われる。
同じ時期、リヒャルト・シュトラウスも同じニーチェの詩にインスピレーションを受けて交響詩を書いている。
シュトラウスの交響詩は静かに消えゆくように終わるが、マーラーの第三番の最終楽章(6楽章)はワーグナー的な金管楽器とティンパニーにより華やかに締めくくられる。
マーラーはこの交響曲を作曲したころ、自分の音楽のインスピレーションは自然から生まれていると友人に向けて書いている。
シェーンベルク
- ユダヤ系作曲家(compositore ebraico)
- ほとんど独学で作曲を学んだので、師事した前の世代の作曲家からの影響が希薄で音楽史の中で独立した存在(isolato)。
- 若い頃はブラームスに楽譜や文献で学んだ。当時のウィーンは世界の文化の駅と言われ、本・楽譜・絵画が集まっていた。ブラームスは現在も当時も保守的な作曲家とみなされているが、シェーンベルクはブラームスの曲に革新的な要素を見出していた。
- 同時代の多くの作曲家と同様、ワーグナーからも影響を受けている。
- マーラーとは直接、音楽談義をしていた。
- ナチス(nacismo)から逃れてアメリカに移住する。
- 調性音楽から出発したが、やがて十二音技法(dodecafonia)での作曲を開始する。
シェーンベルクが創始した十二音技法
シェーンベルクの考えによれば、十二音技法はすべての音が平等に扱われるので、これぞ音楽の民主主義(democrazia)なのだそうだ。主音に戻って終わらなければならないとか、和音によって協和・不協和というのもない、真に平等で調性から自由になった音楽なのだそうだ。
二度の対戦とナチスドイツの迫害を経験したシェーンベルクならではの、社会的思想が反映されている。
調性から解放されるという結果は似ていても、グレゴリオ聖歌や教会旋法を取り入れることで調性から解放される(例、レスピーギ)のとはパーソナリティが異なる。
- 1オクターブの中の12半音(i 12 suoni della scala cromatica)すべてを使った音列を作る。このとき調性を感じさせないような並べ方にする。
- 1で作った基本音列(serie)のポジションを変えたり、反進行(moto contrario)させたり、逆から弾いたり(moto retrogrado)、これらを組み合わせたりしてバリエーションを作る。
- このバリエーションを組み合わせて曲にする。
テーマになるフレーズについて十二音すべてを使うのだが、同じ音を2度使ってはいけないという点で新しい。なぜなら音楽というのは、歴史的にはダ・カーポ・アリアや、1番・2番と歌詞のある曲など、繰り返すことが普通だったのだから。
一方で、カノンや対位法の手法を使っている点で、歴史的な作曲技法を取り入れているといえる。
ドイツの後期ロマン派~近代
後期ロマン派~近現代ドイツの重要な作曲家は、
- リヒャルト・シュトラウス(1864 – 1949)
- ヒンデミット(1895 – 1963)
- ヴァイル(1900 – 1950)
- オルフ(1895 – 1982)
リヒャルト・シュトラウス
ホルン奏者だった父親から伝統的・古典的な音楽教育を受ける。そのため初期の作品はシューマンなどの影響を受けた、伝統的和声を使った調性音楽となっている。
シュトラウスの代表作
交響詩
作曲語法(linguaggio musicale)は器楽的(strumentistico)。
シュトラウスが交響詩を書いていた1880年代はまだ「新ウィーン楽派」が出てくる前の時代。
- 『ドン・ファン(伊:Don Giovanni)』1888年
- 「ツァラトゥストラはかく語り(Così parlò Zarathustra)」1896年(マーラーも同じニーチェの歌詞を使ったシンフォニーを書いた)
- 『ドン・キホーテ(伊:Don Chisciotte)』1897年
- 『英雄の生涯(伊:Una vita d’eroe)』1898年。最後の交響詩。このあとはオペラに活動の場を移す。
オペラ
オペラはワーグナーの後継者といえる作風。
- 『サロメ』(1905)
緊迫した和音が連続して使用される、オスカー・ワイルドの小説が原作。 - 『エレクトラ』でこの方向をさらに進める。
- しかし『ばらの騎士(Il cavaliere della rosa (ドイツ語原題Der Rosenkavalier)』(1910)ではモーツァルトの「フィガロの結婚(Le nozze di Figaro)」のような作風を目指したため、調性音楽に戻っている。
- 『カプリッチョ』(1941)
シュトラウスが完成させた最後のオペラ。
さらに数多くのリートを残している。「Morgen(明日の朝)」はシューベルトの歌曲のようなシンプルな旋律。
ロシアと東欧
最初のロシアオペラ1836年初演のグリンカ作曲『《イヴァン・スサーニン((Ivan Susanin))》皇帝に捧げし命(Una vita per lo Zar)』だが、1900年代になると国民主義(nazionalismo)の勃興により、ロシア語のオペラの名作が次々とあらわれる。
ロシアの重要な作曲家は、
- ストラヴィンスキー(1882 – 1971)
- プロコフィエフ(1891 – 1953)
バレエ音楽『ロミオとジュリエット』では弦楽オーケストラが音を描くよう。
『交響曲第1番「古典」』はその名の通り古典的な様式で作曲された。 - ショスタコーヴィチ(1906 -1975)音楽学者的な側面がある交響曲の作曲家
政治的主張や共産主義者(comunista)と切り離せないのがロシア音楽史の特徴。この傾向は映画や文学にもみられる。
1800年代~1900年代にかけて、東欧ではドイツ音楽の影響が強い。
東欧の作曲家で重要なのは、バルトーク(1881 – 1945)。
ストラヴィンスキー
- 18世紀のドイツのハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンからの伝統である古典主義音楽(classicismo)から独立している。
→バロック音楽の復活(ricupero)とパロディー(parodia) - ヨーロッパとロシアの伝統をミックスしているので特徴的なリズムがあらわれる。
- バレエ(舞踏=動きがある)がストラヴィンスキーのインスピレーションのベースにある。ロシアにはチャイコフスキーを代表としたバレエの伝統が続いている。
調性音楽から出発した→その後、和声だけでなく楽器の選択などすべてが「音色(timbro)」のパラメータになった。
それまでの音楽からの大きな変化。
1700、1800年代の音楽は、
・メロディ
・リズム
・ハーモニー
から作られていた。
ストラヴィンスキーの代表作
- バレエ音楽である、『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』
バレエ音楽『春の祭典』は、ロシアの厳しく長い冬があけて、眠っていた自然が一気に目覚める様子を描いている。リヒャルト・シュトラウスの作品に近い爆発的なエネルギー。 - バロック音楽風 (barocchismo)の『プルチネッラ』
- しかしこのあとまたスタイルを変え、十二音技法に。
不協和音が解決せずに使われ、エネルギーの爆発する『春の祭典』などのバレエ3部作のあとに、バロック音楽のパロディが来るのが興味深い。
一度は調性音楽に戻ったかに見えてまた十二音技法を追求するなど、様々なスタイルを獲得していったのがストラヴィンスキー。
東欧の作曲家、バルトーク
- ハンガリー出身。
- バッハのオルガンフーガなど対位法の音楽や、ベートーヴェンの作曲技法を学んだ中から、新しい形式を生み出した。
- フォルクローレ(民族音楽)と伝統的なクラシック音楽双方を取り込んて新しい時代の音楽を生み出した。
バルトークの曲解説
『Allegro Barbaro』は、ピアノ曲だがメロディラインはなく、ピアノを打楽器(percussione)のように用いている。
「ハープ、パーカッション、チェレスタのための音楽(Musica per archi, percussioni e celesta)」では、色彩的(timblico)にオーケストラを用いている。最初のヴィオラのテーマがフーガのテーマであり、対位法的な技法で作曲されている点がバッハの伝統を引き継いでいる。
イタリア
ロマン派後期、暴力描写と誇張された感情表現(violento e esagerata)を特徴とするヴェリズモ・オペラ(opera verista)の作曲家に分類されるのは、
- レオンカヴァッロ (1857 – 1919,『道化師』)
- プッチーニ (1858 – 1924)
- マスカーニ (1863 – 1975,『カヴァレリア・ルスティカーナ』)
反ヴェリズモ(anti-verista)の作曲家は、
- レスピーギ(1879 – 1936)
- ピッツェッティ(1880 – 1968)
- マリピエーロ(1882 – 1973)
- カゼッラ(1883 – 1947)
など。彼らの共通点は、古典主義音楽(classicismo)を引き継がなかったこと。ただし、それぞれ関心をよせ研究した時代は異なる。
レスピーギ
- 1500~1700年代までの曲を研究し、モンテヴェルディ、フレスコバルディの曲に新しい和声をつけるなど当時の時代感覚でアレンジして発表した作品が多数ある。
- 複調(politonalità)的な曲も残している。複調は同時に異なる調を演奏する音楽のことで、無調(atonalità)や十二音技法(dadecafonia)とは異なる。
レスピーギの代表曲
『リュートのための古風な舞曲とアリア(Antiche arie e danze per liuto)』
1500~1600年代のリュート音楽を、オーケストラや弦楽合奏に編曲したもの。
『グレゴリオ・ヴァイオリン協奏曲(Concerto Gregoriano per violini)』
グレゴリオ聖歌の旋律を使ってヴァイオリン協奏曲にしたもの。
教会旋法(modalità)をシンフォニーに使うことによって、調性(tonalità)から解放されている。
交響詩(poema sinfonico)《ローマの松(Pini di Roma)》
交響詩とは劇伴や映画音楽のように情景を描いている音楽。
- 曲中にはグレゴリオ聖歌の旋律が使われている
- ピアノの書法はドビュッシーを彷彿とさせる部分も。そこかしこにドビュッシーやシュトラウスの影響が垣間見える。
- 第三部の終わりには、鳥の声の録音が再生される。戦後フランスではじまったミュージック・コンクレート(musica concreta)の先駆けと言える。
すでにシェーンベルクが活動している1917~1928年に作曲されたが、無調音楽ではない。
「ローマの松」は《ローマの泉(Fontane di Roma)》《ローマの祭り(Feste Romane)》と共にローマ三部作とされる。
時代と共に形は変化しながら受け継がれていく
交響詩(poema sinfonico)
付随音楽(musica di scena)
映画音楽(musica cinematografica)
ピッツェッティ
グレゴリオ聖歌と古代ギリシャ音楽を研究。
グレゴリオ聖歌や教会旋法(modalità)を取り入れて作曲した(たとえば「レクイエム(Messa di Requiem)」など)。
バロックよりルネサンス音楽の影響が濃い。
ローマのサンタ・チェチーリア音楽院で、のちにシスティーナ聖歌隊音楽監督となるペロージを教えた。
マリピエーロ
- ヴェネツィア出身
- 貧しかったので思うように勉強できず、1600年代の楽譜を写譜することで独学した
- パリでストラヴィンスキーの「春の祭典(La sagra della primavera)」の初演を聴く。若い頃はストラヴィンスキーやドビュッシーの影響も受けた。
- パリでカゼッラに会う
- グレゴリオ聖歌からバロックまでイタリアの伝統的な音楽を研究
- モンテヴェルディやヴィヴァルディの楽譜を校訂し全集(edizione completa delle opere)を出す
カゼッラ
- パリ音楽院で学んだ。作曲の師はフォーレ。
- マリピエーロ、レスピーギとともに近代イタリア音楽の確立をめざす。
- ヴィヴァルディを現代に復活させた立役者。モンテヴェルディ、パガニーニなどバロック音楽派(barocchismo)。
スペイン
重要な作曲家は、
- アルベニス
- グラナドス
- デ・ファリャ
クラシックギターを使用するなど、スペインの伝統に根差した音楽を作った。
イギリス
イギリスの音楽にはあまり重要な作曲家があらわれないが、
- ウィリアム
- エドガー
- ブリテン
が挙げられる。
新大陸(南米とUSA)
南米の作曲家はピアソラを覚えておけばOKだった。
USA
1900年代前半アメリカでは、歌曲・器楽曲の双方で多くの作曲家がビバップなどピアノ、ベース、ドラム、管楽器を用いるジャズの影響を受けた。
ジャズはシカゴ、カンザス、ニューヨークなどの黒人たちの間で発展していったが中でもシカゴのジャズがスタンダードになってゆく。
ジャズを取り入れて作曲したUSAの作曲家には、ミュージカル『ウエスト・サイド物語』で有名なバーンスタイン、ポピュラー音楽のジャンルも手掛けたガーシュウィンがいる。
やがてヨーロッパやロシアの作曲家も含めて、ジャズのリズムやブルースのピアノ奏法などに影響されていく。
ガーシュウィンの代表曲
- 歌曲「スワニー」若い頃の出世作
- 現在もジャズ・スタンダードとして親しまれているミュージカル・ナンバー「アイ・ガット・リズム」
- ラプソディー・イン・ブルーはガーシュウィンが初めてオーケストラ書法で書いた作品。Ottone(管楽器)の使い方、リズムの新しさ、チャーリー・パーカーなどジャズミュージシャンの影響がみられる。
- 「サマータイム」はオペラ『ポーギーとベス(Porgy and Bess)』のアリア。
現代音楽
- メシアン(フランス、1908-1992)
「 36 pitches, 24 durations, 12 attacks, and 7 dynamics. 」すべてをパラメータ化した曲。 - ジョン・ケイジ(アメリカ、1912 – 1992)
代表曲”Bacchanale” for prepared pianoは、ピアノの弦に金属やプラスチック片などを添えて音色を変えて演奏するもの。
その後50年代終わりごろから電子音楽(musica elettronica)へ。 - リゲティ(オーストリア、1923-2006)
無伴奏の合唱曲『ルクス・エテルナ』 (Lux aeterna) は映画『2001年宇宙の旅』に曲が使われた。 - シュトックハウゼン(1928-2007)
Gruppen – Ensemble intercontemporainでは3つのオーケストラが異なるメトロノームで一斉に演奏することで、聴衆が座る場所によって異なる音楽を聞けるという試み。 - ブーレーズ(フランス、1925-2016)
- ルイジ・ノーヴォ(イタリア、1924-1990)
音楽史試験を終えて
実際の試験では、自分でひとつトピックを選ぶことができます。
筆者はフランスの後期ロマン派について話しました。
その後試験官が質問をするのですが、「プッチーニについて何か話せる?」という、音楽院の学生じゃなくても答えられそうな質問でした……
音楽史の口頭試験は、毎年必死で準備するのに実際に試験を受けると拍子抜けするほどシンプルです。
興味のない時代範囲だったけれど
今回の試験は後期ロマン派~近現代という、正直にいうと古楽科専攻の筆者にとってあまり興味のある時代ではありませんでした。
でもひとつ謎が解けたので、授業を受けて良かったと思います。
後期バロック音楽を勉強していると時折、ややポピュラー音楽っぽい和声進行や旋律に出会うことがあります。親しみやすいけど不思議に思っていました。
でも音楽史的に見たら、1900年頃の作曲家にはバロック音楽を研究した人も多く、彼らの音楽は新大陸のジャズと相互に影響を与えあっていたんですね。
いわゆる「ポピュラー音楽」はブルース、ジャズ、カントリーなどの中から生まれてきたので、ジャズがわずかに取り込んだバロック音楽的な要素が垣間見えるのも納得です。
それにそもそも、ジャズのモードって教会旋法に端を発しているんですよね。
というわけで、一見興味のないように見えるジャンルでも音楽史を学ぶのは楽しいという話でした!
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