イタリアでは夏休みの前後が卒業シーズンです。
音楽院では、卒業試験の時期を夏・秋・冬の3つの試験シーズンから選べるので、学生によって卒業する季節が異なります。
夏休み後に論文提出と実技試験(concerto finale=修了コンサート)を行うパターンが一番多く、次に夏休み前に行うタイプかと思います。
今週は6人の卒業試験を聞きましたので、その様子をレポートしてみたいと思います。
学科やコースの内訳は・・・
- バロック声楽科、学部卒業 ―― 2名(ソプラノとカウンターテナー)
- バロック声楽科、修士卒業 ―― 2名(ソプラノとバス)
- 声楽科、学部卒業 ―― 1名(メゾソプラノ)
- チェンバロ科、修士卒業 ―― 1名
という感じです。
審査員として並んだ5人の教授の前でConcerto finale(修了コンサート)と呼ばれる45分超の卒業演奏後、卒論に関する質疑応答がおこなわれます。
どちらも観客にひらかれており、自由に聞きに行くことができます。
ソプラノ学部卒業生の修了コンサート
近隣のほかの音楽院から学部3年次に転入してきた学生です。
転入の理由は、ヴェネツィアの教会で仕事がみつかったから。
転入といっても入試があったり、前の学校とは必修科目が違うため、たくさんの科目を履修しなければならなかったりと、大変そうでした。
オペラの分野ならソプラノ・レッジェーロと呼ばれる声かもしれませんが、大変軽やかで高い声の持ち主です。
軽くしか鳴らしていないのに、会場の外まで聞こえる響きがあります。
また先生曰く、生まれながらに”よく回る声”を授かっていて、いとも簡単にメリスマのフレーズを歌えるそうです。
卒業論文のテーマ
卒業試験コンサートのプログラムは、卒論に関係するものでなければなりません。
卒論と卒演の関連については過去記事でふれていますので、興味のある方はご覧ください。
彼女のコンサートのタイトルは「Il canto della notte ~l’usignolo, le setelle e gli amori~ (夜の歌 ~ナイチンゲールと星々、そして愛~)」というものです。
卒業コンサートのタイトルは卒論タイトルそのものだったり、卒論タイトルと関連している場合がほとんどです。
ただ管理人の場合は「~に関する一分析と演奏解釈」という卒論タイトルなので、コンサートのタイトルは少し変えるでしょうね・・・。
彼女の卒論は、歌詞と音楽、演奏法の関連を論じたものです。
前述したように、彼女はコロラトゥーラを歌う優れた能力を持っているので、歌詞にナイチンゲールが出てきたときの、鳥の声を模したような旋律についてリサーチし、卒業コンサートにもそうしたレパートリーを持ってきています。
卒業演奏プログラム
オルランド・ディ・ラッソ、ディンディア、カッチーニ、ストロッツィ、スカルラッティなど、ルネサンス・バロック声楽学習者の必修課題が並びます。
学部時代に勉強してきた内容を網羅する模範的なプログラムです。
管理人の個人的感想
プログラムを通して聴いた感想は、とても意外なことに最後のヴィヴァルディがもっとも素晴らしかったことです。
本人も初期バロックが好きだと話していたので、ヴィヴァルディは彼女の好みの外に位置するはず。
ふだんはあまり聴けないような強い声も使っていたのですが、意外なことにそちらのほうが魅力的に聴こえました。
自分の得意な分野を中心にプログラムを組むことが大切だと感じました。
もちろん、卒業演奏のプログラムを変えるなら、卒論のテーマから変えないとならないので、卒論のテーマを決める際に「卒業演奏で何を歌ったら高い評価を得られるか?」という視点が必要なのかも知れません。
カウンターテナー学部卒業生の修了コンサート
子供のころから聖歌隊で経験を積み、プレアッカデミコからヴェネツィア音楽院で学習していた学生です。
現在もサンマルコ寺院の聖歌隊で歌っています。
プレアッカデミコについては以下の記事内の項目「プレアッカデミコ・コースとは」で説明しています。
彼は、学部2年目にはエラスムス制度を使ってベルギーの音楽院に留学していましたが、帰ってきたらすごく上達していて驚きました。
エラスムス制度とはヨーロッパやイギリスの交換留学制度で、ほかの学校で取った単位が自分の学校で卒業単位として認められる制度です。
学費も自分の学校の学費を払っていればOKなので、イタリアやドイツなど比較的学費の安い学校からエラスムス制度を使ってほかのヨーロッパの学校に留学すると、経済的にお得かもしれません。
プログラム
彼のコンサートタイトルは「La musica dei farsettisti(ファルセット歌手の音楽)」でした。
プログラムを見ていただければ分かるように、ほとんどが1500年代の音楽です。
1611年のロヴェットの作品を最後にルネサンス・バロック時代に別れを告げ、1960年のブリテンへと時代が飛びます。
でも最後の曲は1711年のヘンデルのオペラから――この一見不可解な曲順については、演奏後本人から解説がありました。
卒業論文に関する質疑応答タイム
卒業演奏後はすぐに審査員席に用意された椅子に座り、お客さんたちが見守る中で卒論の質疑応答をすることになります。
ですので卒業試験だけでなく、卒論の内容をうかがい知ることができ、聴き手にとってはとても有意義な時間となります。
彼のリサーチはあくまで”ファルセット歌手の音楽”であったこと――それは中世からあらわれますが、1600年代に入ると次第にカストラート歌手のための音楽が増えていきます。
そして明確にファルセット歌手のために書かれた作品というと、20世紀のブリテンを待たなければならないという話がされました。
彼の主張は、カストラートのためのレパートリーを歌うなら女性歌手のほうがよほど彼らの声の「真似」に向いているだろうということ、ファルセット歌手には彼ら自身のためのレパートリーがあるのだということでした。
例えばカストラートのために書かれたオペラの役では、レチタティーヴォが比較的低い音域に書かれています。
カストラートたちにとってそれは彼らの自然な話し声の音域だが、ファルセット歌手にとってはファルセットの質を保ったまま低音域を歌うことは難しく、ましてやその音域で喋るというのは自然ではないという話でした。
カウンターテナーならではの視点からのリサーチで大変興味深かったです。
コンサートに関する感想
プログラムのほぼすべての曲で、おそろしく音程が正確でした。
また細かいディミヌツィオーネ(分割装飾)も実に正確に歌っていました。
ノン・ビブラートでもやわらかい声で、ルネサンス~初期バロックの正統的な歌唱法という印象でした。
唯一完璧でなかった箇所があるとするなら、プログラム最後のヘンデルのアリア「Cara sposa」のB部分で曲が速くなるところは歌いにくそうでした。
ただしこれも、コンサート後の質疑応答を聞くと、カストラートの声のために書かれたアリアは、ファルセット歌手の声には合わないことの証左のようにも思えました。
彼は自分の声にあったレパートリーを選んでいて、選曲の観点から見ても成功だったと思います。
ソプラノ修士課程修了コンサート
卒論テーマは・・・
この学生は日本人なので、卒論にも日本に関連するテーマを選んでいました。
というか、教授から指定されたという方が正しいでしょう・・・
過去記事の「研究計画書を作って担当の先生にうかがいを立てる」でふれた留学生がまさに彼女のことです。
卒論テーマは、「日本と西洋の宮廷音楽比較」でした。
そのため卒業演奏会でも、イタリアの音楽だけでなく日本の古い音楽も歌っています。
プログラム
演奏会プログラムは先生が選んだそうで、マニアックな曲が並びます。
4、5曲目は日本の音楽です。
伴奏のチェンバロはリュートストップを用いて、なんとな~く和楽器風の音色にしていました。
リュートストップとは、フェルトなどで弦をミュートしてあまり響かないようにする機構です。
リュート風の音色になるからリュートストップと呼ばれているのでしょうが、和風の曲を弾くと、リュートより筝に近い音色かも知れないと思わされます。
伴奏はチェンバロ奏者の嘱託の先生が弾いてくださいます。
さすがチェンバロ奏者、和音をリアリゼーションして弾くので、中世の日本の音楽にしっかり和声がついていて、モダンな聴きやすい曲に仕上がっていました。
でも歌の旋律が日本の伝統的な音階なので、和風な雰囲気は出ていましたよ。
バロック・バスの学生、修士課程修了コンサート
プログラムが配布されなかったため曲の詳細は不明です。
ただ歌詞に耳を傾けていたところ、モンテヴェルディのオペラ《オルフェオ》からのアリアを歌っていたことは確実です。
修士論文のテーマは、1600年代前半に活躍したテノール歌手フランチェスコ・ラージについてです。
ラージはすぐれた歌手だっただけでなく、作曲もしたし、また彼の書き込んだ装飾譜が残っているそうです。
ですので今回の卒業コンサートでは、ラージ版装飾でモンテヴェルディのアリアを歌っています。
ただ、卒業する学生はバスで、研究対象になったラージはテノールなんですよね。
自分と異なる声種の歌手をリサーチするというのは、意外に感じました。
声楽科、メゾソプラノ学部卒業生の修了コンサート
彼女は古楽科ではなく、普通の声楽科です。
ただしヘンデルが好きで、今年から古楽のほうの声楽修士課程に入学されました。
彼女の興味を反映してか、プログラムには1700年代の曲も複数含まれています。
プログラム
バッハ、ヘンデル、ロッシーニが含まれていて楽しそうなプログラムですね~。
”ヘンデルなど後期バロックオペラを学ぶために古楽科に登録する”というのがベストな選択肢なのか、かなり疑問です。
この記事で見てきたように、古楽科学生の卒業演奏プログラムは1500年~1600年代前半が中心で、後期バロックの時代は手薄です。
理由は、現在のバロック声楽科教授の得意分野や情熱を傾けている時代が、初期バロックまでだからかも知れません。
ほかの音楽院へ転校すれば状況が変わる可能性は大いにあります。
こうした議論は過去記事「バロックオペラ歌手になるには古楽科or声楽科どちらで学ぶべき?」でも書いています。
コンサート中のハプニング
ハプニングと言うべきかどうか――聴いているこっちまで肝を冷やすようなできごとがありました。
バロック声楽科の卒業演奏ではたとえオペラアリアを歌うときでも譜面を見ることができますが、普通の声楽科のほうでは室内楽でも宗教音楽でも譜面をはずさなければならない規定があります。
プログラムは『マタイ受難曲』の有名なアリア「Erbarme dich(憐れみ給え、わが神よ)」から始まりました。
彼女はこの曲を譜面を見ながら歌い始めたので、途中で審査員席から声がかかり、譜面をはずすように言われました。
「でもこれは宗教音楽です。オペラアリアではありません」
と学生は反論しましたが、
「音楽院のWebサイトに載っている規定を読んだ?
卒業演奏では室内楽でも宗教音楽でもすべて暗譜の規定よ。
譜面をはずして最初からやり直して」
と言われ、「Erbarme dich」をまた前奏から繰り返すことに。
リハーサルの段階で誰か気付く人はいなかったのだろうか?などと思いながら聞いていましたが、途中伴奏が歌に合わせたようなところもあったとはいえ、最後まで歌いきりました。
卒論テーマは・・・
この学生は中東地域からの留学生なので、「Parentele musicali tra oriente e occidente 東洋と西洋の音楽的類似性」というテーマでした。
質疑応答を聞いたところ、彼女の論文における東洋は西アジアやペルシャ世界をさしているのであって、東アジアの話ではありません。
去年卒業した日本人学生も『蝶々夫人』を研究テーマに選んでいたし、留学生は自分の出身国に関連したテーマを研究するという慣例でもあるのでしょうか・・・
チェンバロ科修士課程修了コンサート
また古楽科に戻りまして、チェンバロ科の学生の修士課程修了時の卒業演奏です。
修士論文のテーマ
彼女の書いた修士論文は、1700年代中ごろのパリにフォーカスし、チェンバロからピアノへと移り変わっていく時代のレパートリーを研究したものです。
というわけで、バロック声楽と同じ古楽科でも扱う時代は一気に新しくなりました。
コンサートのプログラム
コンサートのタイトルは「Sonate per corde pizzicate e corde percosse 撥弦楽器と打弦楽器のためのソナタ」で、前半2曲は撥弦楽器=チェンバロで、後半2曲は打弦楽器=ピアノでの演奏でした。
このピアノ、現代のモダン楽器ではなく、1820年代前半に作られたオリジナル楽器です。
管理人もレッスン中に弾いたことがありますが、現代のピアノより音量は控えめなものの、まろやかなのによく響く素敵な音色です。
ピアノの機構に近いので、もちろんディナーミクも付けられます。
弾き心地は現代のピアノより軽いので、トリルなどの装飾が付けやすいのですが、チェンバロよりはピアノに近い感触です。
- 1曲目はチェンバロソロ、
- 2曲目はチェンバロとヴァイオリン、
- 3曲目は1800年代前半の古いピアノ独奏、
- 4曲目はそのオリジナル楽器のピアノとヴァイオリン
という、変化に富んだプログラムでした。
チェンバロとヴァイオリンの音色がミックスするのと、オリジナル楽器のピアノとヴァイオリンの音色が混ざるのでは、違った効果が得られます。
その聴き比べもできて楽しかったです。
チェンバロとピアノ、弾きやすいのはどちら?
質疑応答時、チェンバロとピアノそれぞれの奏者にとってのメリット・デメリットのような話がありました。
チェンバロは鍵盤が軽いからトリルがきれいに決まりやすい反面、軽くふれただけでもしっかりと音が鳴ってしまいミスタッチが目立つから、つねに指先に細心の注意が必要と話されていて、まったくその通りだなと思いました。
ピアニストからしたら、チェンバロ奏者のミスタッチが気になるでしょうが、楽器の機構上仕方ない面もあるので、多めに見てあげて下さいね。
過去に、ピアノとチェンバロの違いについて書いた記事もありますので、興味がありましたらどうぞお読みください!
関連リンク一覧
最後に、記事内の関連リンクをまとめておきます。
気になった記事があったらお読みください。
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