3人の作曲家による《セルセ》から紐解くバロックオペラの歴史

「バロックオペラの歴史」タイトル画像バロック声楽
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卒業コンサートでヘンデルの《セルセ》からのアリアを歌うことにしましたので、論文も《セルセ》を扱うことになりました。

過去記事『ヘンデルのオペラ《セルセ》とOmbra mai fu(オンブラマイフ)』の「リブレット(台本)について」に書いたように、《セルセ》は3人の作曲家によって付曲されています。

バロック時代には、過去にヒットした台本にほかの作曲家が新しい曲を書いて新作オペラとして上演されることが普通でしたので、3人の作曲家なんてむしろ少ないほうかも!?

ただし台本は毎回改稿されています。
新プロジェクトのために集めることができた歌手たちにあわせて、アリアの数を増やしたり減らしたり、音域や曲を変えたりしていたのです。

今回の記事では、卒論を書くために調べたことをまとめてみました。

《セルセ》はちょうど、バロック時代中期の1950年代ヴェネツィアでのカヴァッリの上演40年後のローマ初演となるボノンチーニの作品、そしてさらに40年以上後のロンドンにおけるヘンデルの作曲と、バロックオペラの変化を追うのにぴったりの題材でしたので、バロックオペラの歴史を垣間見ることができると思います。

初期バロックオペラの大家モンテヴェルディと、18世紀前半にヨーロッパで大ヒットしたオペラ作曲家ハッセではまるで作風が違って、バロック時代の声楽曲を聴き始めた頃、
「これがどちらもバロックオペラ!?」
と驚いたことがあります。

今回リサーチしていて、貴族的で典雅なスタイルのオペラが華やかなスペクタクルに変化していった鍵は、17世紀後半のヴェネツィア共和国にあったことが分かりました。

17世紀前半のヴェネツィアではモンテヴェルディが活躍し、次の時代をになうことになるカヴァッリが、モンテヴェルディから作曲を学ぶ機会もあったようです。

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カメラータの試みからヴェネツィアオペラへ

16世紀末のフィレンツェにおいて貴族たちの集まりの中で生まれたオペラは、ヨーロッパ各地で王侯貴族の祝祭のために演じられるようになった。
こうした祝賀行事の際の上演では、許可された観客は無料で観劇することができた。

やがてオペラに商業価値を見出したヴェネツィア共和国の有力な商家によって有料のオペラ興行がはじまった。

ヴェネツィアではすでに1580年代、伝統的な即興喜劇Commedia dell’arte(コンメーディア・デッラルテ)の人気から喜劇の有料興行が始まっていた。
富裕層が出資し、興行主(lmpresario)が公演を取り仕切り、興行から得た利益を出資者の間で配分するというシステムだった。

1630年代にこれらの喜劇用の劇場が改修され、サン・カッシアーノ劇場(Teatro San Cassiano)、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ劇場(Teatro SS. Giovanni e Paolo)、サン・モイゼ劇場(Teatro San Moisè)などの有料のオペラ劇場として開場した。

フィレンツェでは貴族グループのアカデミックな試みであったオペラが、ヴェネツィアでは商業オペラとして盛んになっていったのだ。

このため市民層の好みが興行の成功に関わるので、彼らの興味を惹くために、機械仕掛けや舞台転換、カストラートによる超絶技巧、異国情緒が盛り込まれていった。

娯楽要素に重点が置かれたことが強みとなり、ヴェネツィア派のオペラはイタリア国内のみならずヨーロッパのほかの国々へも伝播していく

1670年代に起こった入場料の値下げにより、ヴェネツィアオペラの内容の大衆化がさらに進んだ結果、フィレンツェで起こった初期オペラのレチタール・カンタンドのスタイルから離れ、対話や重唱、合唱が減り、アリアをレチタティーヴォがつないでいくスタイルへと変化していった

17世紀後半のこの時期になるとナポリ派のオペラが台頭し、流行のスタイルとなった。

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1654年ヴェネツィアにて初演されたカヴァッリの《セルセ》

ヴェネツィアに観客が入場料を払って観るタイプのオペラ劇場がオープンしてまもなく、オペラ作曲家として現れ、イタリア各地に伝わったヴェネツィア・オペラの代表的作曲家となったのがフランチェスコ・カヴァッリ(Francesco Cavalli、1602-1676)だった。

カヴァッリはオペラを中心に活動した作曲家だったが、オルガン奏者も務め教会音楽も作曲している。

サンマルコ寺院の聖歌隊員として音楽キャリアをスタートし、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会のオルガニストを務め、やがてサンマルコでもその地位についた。

1640年代のカヴァッリのオペラには高度に洗練された雰囲気が残っていたが、次第に筋が複雑になり、喜劇性を強めていった。

1650年代になると、法律家でもある台本作家ニコロ・ミナート伯爵(1630-1698)の協力を得て、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ劇場のために作曲する。

1654年に初演された《セルセ》は、ヘロドトス『歴史』に伝えられた第三次ペルシャ戦争(紀元前480年)の物語を素材としているが、ミナートはセルセ(ペルシャ王クセルクセス)をアレクサンダーのような英雄ではなく人間的な弱点を持ったアンチヒーローとして、周囲の人物たちはCommedia dell’arteの伝統を反映させて喜劇的に描いた。

《セルセ》はヴェネツィア・オペラがイタリア各地の小都市に広がっていく一助となった作品群の一つである。
28年間(1654~1682)上演項目に上がっており、イタリアだけでなくパリでも演じられた。

カヴァッリの書法は初期オペラのスタイルを引き継いでおり、叙唱形式の会話を中心にストーリーが進み、アリアやDuettoへと流れ込んでいく。
またそれらのアリアも有節形式だったり、バッソ・オスティナート(Basso ostinato)の付いた変奏曲だったりと変化に富んだ構成となっており、のちのダ・カーポ・アリアが繰り返される形式とは大きく異なっていた。

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1694年ローマにて初演されたボノンチーニの《セルセ》

カヴァッリのセルセが初演されてから約40年後、ニコロ・ミナートの台本はジョヴァンニ・ボノンチーニ(1670-1747)のためにシルヴィオ・スタンピリア(1664-1725)によって改訂され、18世紀前半に大ヒットするメタスタージオのオペラ・セリアほどは形式化されていないものの、ダ・カーポ・アリアをレチタティーヴォがつなぐ18世紀以降の形式に近付いた。

ボノンチーニはヨーロッパの様々な都市で活躍した作曲家で、チェロ奏者としても名演奏家であり、18世紀前半にはもっとも名が知れている作曲家の一人だった。

16歳でボローニャのサン・ペトローニオ聖堂に、様々な弦楽器を演奏し歌も歌える音楽家として雇われた。

その後ローマに移りコロンナ家に仕えたが、このコロンナ家に台本作家のシルヴィオ・スタンピリアも雇われており、二人はオペラ、オラトリオ、セレナータを共作した。

ボノンチーニの音楽は穏やかで牧歌的な旋律を持っており、優雅さの手本として称賛された

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17世紀後半のローマの劇場事情

ローマでもフィレンツェと同様、初期のオペラは有力者の邸宅で行われた

シクストゥス5世(在位:1585年-1590年)は女性が舞台に立つことを禁止する教令を発布していたので、女性役はカストラートが演じることが多かった。
しかし、たとえ名目上であっても私的な劇場ならば、女性歌手が歌うこともできた。

クレメンス9世(在位:1667年-1669年)、本名ジュリオ・ロスピリオッシ(Giulio Rospigliosi)はオペラの台本作家でもあったので、1669年に公共劇場の建設を許可した。
1670年、トル・ディ・ノーナ劇場(Teatro Tor di Nona)はカヴァッリのオペラでこけら落としを行った。

しかしクレメンス9世の次の教皇クレメンス10世(在位:1670年-1676年)によって1674年、劇場は閉鎖された。

1676年に教皇に就任したインノケンティウス11世(在位:1676年-1689年)は、シクストゥス5世が発布していた女性への舞台禁止教令を施行した

1690年にトル・ディ・ノーナ劇場は再開され、ボノンチーニの《セルセ》は1694年に初演された。
依然として女性歌手は公共の劇場で歌うことはできなかったので、すべての役が男性歌手によって歌われている――10の役柄のうちソプラノ・カストラートが歌ったものが4つ、アルト・カストラートの役が3つ、残りは二人のテノールと一人のバスによって歌われた。

インノケンティウス12世(在位:1691年-1700年)は劇場芸術に批判的だったので、トル・ディ・ノーナ劇場は1697年、教皇の命令によって取り壊され、ローマでは私的なオペラ上演が一層盛んになった。

ヘンデルは1706年の終わりごろからからオペラ作曲家としての経験を積むためイタリアに渡ったが、オペラ上演が禁じられているローマに長く滞在していたため、イタリア滞在中には2曲しかオペラを書いていない
しかしローマの作曲家たちはオペラと寸分たがわない様式でオラトリオやカンタータを作曲し、ヘンデルもそれに倣ったので、イタリア・オペラの様式を身に着けることができた。

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オペラ・セリアの習慣とメタスタージオ

オペラ・セリアは時代が下るに従って形式化していった。

ストーリーはレチタティーヴォで進行し、アリアでは感情表現に集中した

アリアはほとんどいつも独唱によるダ・カーポ・アリア形式で、歌手はダ・カーポ部分で華麗なヴァリエーションを披露したので、筋の進行が停止し歌手の見せ場となった。

歌い終わったら退場する習慣だったので、アリアを歌った登場人物が毎回退場しなければならないという台本執筆上の制約が生まれた。
さらに、それぞれのアリアはできるだけ異なった情感を表す変化に富んだものにする必要があった。
台本作家には、このような約束事を守っても支離滅裂にならない台本を用意するすぐれた力量が求められた。

その中で1730年頃から特に人気を集めたのが、宮廷詩人ピエトロ・メタスタージオ(1698-1782)である。

彼は王侯貴族にふさわしい道徳観を描き出すことを目指し、17世紀のヴェネツィアオペラにおいて発展した特徴である、英雄の物語にもCommedia dell’arteの伝統を引き継ぐコミカルなエピソードを挿入することや、舞台上のスペクタクルな機械仕掛けを減らすよう努めた。

またメタスタージオの劇では、ほとんどいつも国王が物語を解決に導く。
王は身分や立場にふさわしくない自らの恋を理性で押さえ、劇の最後には本来の婚約者と結婚し、謀反を企てた者のすべてを許すことで事件を円満解決し、物語はハッピーエンドとなる。
メタスタージオは、自分の感情を犠牲にして臣下の幸せを実現する君主像を描くことで、観客に現実の君主の偉大さを認識させることができる有能な宮廷詩人だった。

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18世紀前半のロンドンとヘンデルの活動

ヘンデルは1710年以降、短い中断を除いてほとんどいつもイギリスで活動していた。

1720年からはヘンデルが音楽監督を務めたロイヤル音楽アカデミーの活動が始まる。
この年の秋にはボノンチーニがロンドンに到着した。
アカデミー最初の2年間にボノンチーニのオペラは63回上演されたが、ヘンデルのほうは28回だった。
ロンドンの聴衆は、ボノンチーニのシンプルで耳なじみの良い旋律を好んだが、ボノンチーニは政治的な理由で契約を断たれロンドンを離れた。

1728年、イタリアオペラを風刺した英語の音楽劇『乞食オペラ』(The Beggar’s Opera)が初演される。
このコメディ作品はロンドンで62回上演されるヒット作となった。

1730年代になると、ロンドンの聴衆は英語の作品を求めるようになってきた。
この嗜好の変化に対応して、ヘンデルは収入を確保するためにイタリアオペラだけでなく、英語オラトリオや英語セレナータを上演していた。

またイタリアオペラを上演する際も、長すぎるレチタティーヴォでロンドンの聴衆を飽きさせないように、レチタティーヴォは以前に増して短くされた。
当時の劇場は客電が落ちなかったので、聴衆はイタリア語と英語訳の載った台本を公演前に購入し、読みながらオペラを聴くことができたのだが。

1734年、イタリアオペラ愛好家たちが結成した、ロイヤル音楽アカデミーに対抗する団体貴族オペラが上演を開始し、アカデミーから有能なイタリア人歌手たちを引き抜いていった。

しかし1737年には両方のオペラ団が財政破綻する。
その上ヘンデルは卒中の発作に倒れた。

この年『ウォントリーの竜』(The Dragon of Wantley)と題する英語のコメディ・オペラが初演され、人気となる。
『乞食オペラ』(The Beggar’s Opera)同様、イタリアオペラを茶化した滑稽なものだった。

ヘンデルは温泉地アーヘンで湯治し戻ってくるとすぐに新作オペラを書いた。
1738年1月に《ファラモンド》が初演され、タイトルロールを務めたカッファレッリが評判となったものの、ロンドンではいまだ『ウォントリーの竜(The Dragon of Wantley)の人気が続いていた。
『ウォントリーの竜』はロンドンで69回上演されたのだ。

《ファラモンド》はアポストロ・ゼーノ(Apostolo Zeno)による40年前の台本――1698年ヴェネツィア初演のために書かれた――に作曲されているが、多くのレチタティーヴォが削除されたため、ストーリーが分かりにくくなってしまった。

この年の4月ヘイマーケットの国王劇場で《セルセ》が初演されたが、5回しか上演されなかった。
すでにロンドンでのイタリアオペラの人気は下火になっており、興行的に成功したとは言い難い。

《セルセ》の台本は古代の歴史をベースにしており、王の決定により物語がハッピーエンドに導かれる点など、メタスタージオ劇のオペラセリアの典型を守っているようにみえるがその精神性は、君主を讃えることを目的とした宮廷詩人メタスタージオのものとは大きく異なる

ヘンデルが《セルセ》を作曲した1830年代、ヨーロッパ大陸ではメタスタージオの台本が人気を誇っていたが、ヘンデルが意識していたのはロンドンの演劇界と聴衆の好みだった。

このあとヘンデルはたった2つしか新作のイタリアオペラを書かなかったが、それらはどちらも喜劇であった。
オペラの筆を折った後は、英語のオラトリオの分野で活動していく。

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参考文献

書籍

ニューグローヴ世界音楽辞典』も参考にしました。
特にボノンチーニローマの劇場に関する項目で助けになりました。

CD

↑このCDの日本語版解説書が充実していました。

論文

  • 田島 容子(1998)「コンタリーニ写本と17世紀のヴェネツィア・オペラ」, 『イタリア学会誌』, 48, pp. 227-251
  • 中川 さつき(1995)「メタスタジオのオペラセリア:絶対王政下のユートピア」, 『イタリア学会誌』, 45, pp. 77-99

中川さつき先生の論文には興味深いものがたくさんあります。
Web上で読める論文もありますので、バロックオペラとその周囲の社会状況に興味のある方にはお勧めです!

今回も長い記事を最後まで読んで下さいありがとうございました。

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